2017.09.20
レポート
第2回データ中心社会が変える情報経済社会の未来(前編)
50周年記念連載 「NEXT50、次への一歩」を考える
JIPDEC設立50周年連載の第2回は、日本アイ・ビー・エム株式会社 最高技術責任者の久世和資氏をゲストに迎え、情報産業の過去から現在、そして未来についてお伺いします。
(聞き手、JIPDEC常務理事 坂下哲也)
久世和資氏プロフィール:1987 年に日本アイ・ビー・エム株式会社入社。東京基礎研究所でオブジェクト指向、ソフトウェア・エンジニアリング、パベイシブ・コンピューティングなどを研究し、2004年に東京基礎研究所長。2005年に日本IBM執行役員就任。アメリカ本社海外赴任、システム開発研究所所長、サービス・イノベーション研究所長を経て、2008年より未来価値創造事業部長。2009年研究開発担当。2017年1月より最高技術責任者(CTO)。
—JIPDECは今年で設立50周年を迎えました。設立当初は、メインフレームの運用を行う情報処理の組織でした。1980年以降情報産業時代に入り、パーソナルコンピュータの普及、ハードウェア価格の低下、通信の高速化、モバイルの台頭といった変化が次々に起こったと認識しています。この半世紀のコンピュータや情報産業の変化について、久世さんと振り返りながら、今後の技術開発の方向性についてお聞きしたいと思います。まずは、久世さんのこれまでのキャリアについて自己紹介いただき対談をスタートします。
久世氏(以下敬称略) 1987 年に日本IBMに入社し、東京基礎研究所に配属になり、オブジェクト指向、ソフトウェア・エンジニアリングなど、ソフトウェア関連の研究分野に従事していました。研究所の中だけで仕事をしているより、製品開発チーム、サービスチーム、お客様と積極的に協業し、現場で仕事をすることが、ほとんどでした。
2004年から東京基礎研究所の所長になり、その後、ニューヨークのIBM本社に赴任しました。当時、技術のトップであったジョン・ケリーの元で、IBM全体の技術戦略会議などに参加する機会を得ました。帰国後、システム開発研究所の所長をし、2007年に未来価値創造事業部という全く新しい形態の事業部の責任者になりました。2008年より、大和(神奈川県)の研究所に戻り、研究開発をリードしました。研究所は、現在、本社、新川崎、横浜北、幕張に分散しています。今年1月に日本IBMの初代CTO(Chief Technology Officer)に就きました。
ムーアの法則の限界と変化
坂下 過去50年の間、ゴードン・ムーアが提唱した「ムーアの法則」がIT業界を規定してきたと思われますが、その「ムーアの法則」の限界について最近言われるようになりました。技術的にはどんな変化が出てきているのでしょうか。
久世 半導体の集積度とクロック数を上げてきましたが、これ以上の集積は難しくなっていますし、消費電力の課題も大きいです。集積回路の線幅が細くなり、漏れ電流の問題が生じています。実際の計算に使う電力より、漏れて無駄になっている電力のほうが大きくなっています。このような状況から、真空管、リレー、トランジスタ、ICに続く、「新しい技術ブレークスルー」の時期だと言われています。
消費電力問題の一つの例として、IBMワトソンがあります。2011年2月16日、アメリカで50年以上も続くクイズ番組の「Jeopardy!」で、人工知能であるIBM Watsonが、二人のチャンピオンに挑戦しました。74連勝のケン・ジェニングス氏と3億円の賞金を獲得したブラッド・ラター氏です。IBM Watsonは、この二人の歴代チャンピオンに勝つことができました。しかし、Watsonが使った電力は、20万Wにもなりました。かたや、歴代チャンピオンは、それぞれ、20Wしか使っていません。1万倍の違いがあります。半導体メーカーは、集積率とクロック数を上げてきたのですが、ふと冷静に見ると人間の脳はわずか10Hzで動いて、半導体チップよりも、はるかに能力が高いことがわかります。
そこで、IBMでは、フォンノイマン型の計算機とは抜本的に異なった脳の構造を模したニューロモーフィック・チップの研究開発をしています。第2世代のチップで、100万のニューロンと、2億5,600万のシナプスが実装されています。このチップで、動画の深層学習ができますが、その消費電力は、通常のチップの1000分の1程度になります。このチップは、生物では、蜂に相当します。これを100個組み合わせて猫レベルになります。猫レベルのチップを更に1000個組み合わせて人間のレベルになります。第二世代のチップは、深層学習自体は、通常のコンピュータで実行し、学習済みのニューラルネットをチップに書き込み、アプリケーションの実行をします。現在、チップ自体が学習できる第三世代のチップの開発を進めています。
日本のモノづくりがPC時代を牽引
坂下人工知能について、メディアなどで騒がれていますが、電気や処理能力などまだまだ解決しないといけない課題があるのですね。IBMは世界のコンピュータ業界を牽引してきた企業だと思います。技術進展に伴うアーキテクチャの進化の過程で日本のものづくりはどのように寄与しているのでしょうか。
久世IBMの歴史の転換点になったのは、1964年に発表したSystem/360です。System/360では、命令セットアーキテクチャを統一することにより、同一のプログラムを全てのモデルで修正なしに実行することを可能にしました。その結果、様々なソフトウェアを手軽に入れ替える事により、多種多様の業務に対応することができました。これは汎用コンピュータの先駆けとなり、企業がコンピュータシステムを使うきっかけになりました。
1981年に、パーソナルコンピュータ(以下PC)、IBM PCを発表しました。オープンアーキテクチャーを採用し、他社が周辺機器や互換ソフトを開発できるようにしました。1992年に発表したノートパソコンThinkPadは、日本の大和研究所が中心になって開発しました。IBM PCやThinkPadに搭載されたデバイスは、小型化、高性能化、短期開発サイクルが必須で、多くのものは、日本企業が開発したものでした。PCの隆盛を支え、次々に新しい製品の登場を牽引してきたのは、日本の優秀なモノづくりいうことができます。
クラウド化の急速な進展、そしてその先は?
坂下PCの進化と併せてクライアント/サーバーアーキテクチャが生まれ、ダウンサイジングと「分散処理」へと移行の流れが出てきました。
久世そうですね。私も製鉄会社の生産管理システムのダウンサイジングのプロジェクトに関わりました。製鉄工場では、高炉、転炉、連続鋳造、圧延、メッキなどのプロセスがあり、これらをコンピュータで管理しています。その製鉄会社では、プロセスコントロールを、メインフレーム、つまり、大型コンピュータで処理していましたが、これをクライアントサーバー・システムに置き換えるプロジェクトでした。ハードウェアの置き換えは、複数のフェーズに分けて実施することが決まっていました。ハードウェア構成の違いによるアプリケーションの修正を最小限にするため、ソフトウェア側にはオブジェクト指向も導入しました。
さらに、高速のネットワーク環境が整備されたことや、大規模なサーバークラスターやその運用の自動化技術などの進歩で、クラウドの潮流が大きくなっていると認識しています。また、IoTの時代に入りデータボリュームが爆発的に増加したことを受けて、クラウドコンピューティングに加えて、データ発生場所である程度の処理を行うエッジコンピューティングという、新たな集中と分散の在り方も提示されています。いずれにしても、しばらくはクラウドコンピューティングが更に進化する時代が続くと考えています。
坂下クラウドがシステムを所有物ではなくて使用物に変えたというのは、とても大きな変化だと思うのですが、久世さんはクラウドコンピューティングが社会に与えた影響をどうお考えですか。
久世我々はクラウドコンピューティングをフェーズに分けて考えています。最初に起こったことは、ご指摘のように、所有することから使うことへの変化です。ITインフラを各企業が自社で保有、管理、保守するコストと手間と時間から解放されることにより、経営的にもITが固定資産ではなくなり、大きなブレークスルーとなりました。
次は、アジャイル化の加速です。これは、クラウドのプラットフォーム化により実現しました。計算ノード、ネットワーク、ストレージ、OSだけでなく、その上で稼働するアプリケーションを実装するための機能部品やAPIが用意されました。新しいアプリケーションをデザインしたら、必要な計算機の環境を一瞬で用意して、APIを組み合わせて、すぐに実行することができます。さらに、稼働したものを拡張したり、修正したりすることが柔軟にできるようになりました。
最後は、インダストリーに特化したクラウドの実現です。このクラスのクラウドでは、企業の枠を超えて、業界内でのクラウド連携が進みます。異なるクラウドプラットフォームが柔軟に連携できるようになるはずです。もちろんセキュリティやプライバシーを担保した上ですが、業界内や業界間でのクラウド連携が益々増えていくことが予想されます。
坂下日本のIT産業は元受け-下請け-孫請けという垂直統合の関係でした。クラウド間連携で業界まで横断した連携が増えてくると、IT産業の産業構造にどのような影響をもたらすのでしょうか。
久世今までのITは、オンプレミスであれクラウドであれ、アプリケーションを構築して稼働することが重視されてきましたが、これからは、データの重要性が増え、データ自体が価値を持ちます。そのデータをいかに管理して、いかにビジネスにしていくかがポイントになります。それを実現するデータプラットフォームが、大きな“ゲームチェンジャー”になるはずです。IBMでは“データファースト”という言葉で、この潮流の重要性を主張しています。
決定権はIT部門から現場へ
久世 もう一つの大きな変化は、ITに関する決定権が現場や開発者に移っていくことです。開発に使うクラウドプラットフォームやAPIなどの選択が、IT部門ではなく現場や開発者に移ってきており、ITの潮流や業界の流れに重要な役割を果たすと考えています。
もっとも海外と日本では若干違う状況もあります。日本では企業がITベンダーに発注する形態をとることが少なくありません。これに対して、海外では大企業でも、社内に相当数のITやデジタルの技術者がいて、システムを開発しています。そのような環境とクラウドやAPIによるアジャイル開発の登場で、現場の開発者のITに対する決定権や影響力が急速に大きくなっています。欧米ではその傾向が日本よりも顕著です。
坂下意思決定が移ることで、システムとしては部分最適化が進み、全体最適化をどうするか、セキュリティやプライバシーをいかに守るかという課題が顕在化するのではないでしょうか。
久世はい。ご指摘の通りです。セキュリティやプライバシーの重要性は、益々、重要になります。また、マルチクラウド化が進んで、クラウドが社会の中心になると、プラットフォーマー側で連携しながら全体最適化してくれるような仕組みが当たり前になってくるのではないでしょうか。
今や、クラウド化で、計算機資源を意識しなくても使えるようになりました。次は、ネットワークなどの拡張や保守も気にしなくてよくなる。その先は、セキュリティや全体パフォーマンスも、自動的に最適化され、意識する必要がなくなると考えられます。