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2026.06.22

レポート

PETsの暗号基盤と耐量子暗号

~データ連携技術の時限的前提~

【要約】
PETs の一部は暗号の計算困難性に依存しており、量子コンピュータの発展により、その技術的前提の一部が揺らぐ可能性がある。NIST は 2024 年 8 月に FIPS 203~205 を確定し、NIST IR 8547 の初期公開ドラフトでは、量子コンピュータに対して脆弱な暗号から耐量子暗号への移行に関するタイムライン案が示されている。欧州各国や英国も移行ガイダンスを公表し、日本でも政府機関等について、2035 年を目標とする移行方針が中間とりまとめで示されたが、具体的な移行工程表はなお整備途上にある。PETs への影響は技術選択によって一様ではない。FHE は格子問題系という点で耐量子暗号と比較的親和的な数学的基盤を持つ一方、現行公開鍵暗号に依拠する OT ベースの MPC 等では、暗号プリミティブの置換や安全性の再検証が必要となり得る。PETs の制度設計にあたっては、暗号基盤の移行可能性を並行して検討する必要がある。

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電子情報利活用研究部 次長 松下 尚史

1. はじめに——PETsが依存する前提

拙稿「プライバシー強化技術(PETs)と個人情報保護法~データ連携の制度的課題~」1(以下、拙稿「PETsと個人情報保護法」)および「企業間データ連携が進まない構造的理由~技術的・制度的障壁とリスクベースドアプローチへの転換~」2において、PETsが複数事業者間のデータ連携を成立させるための基盤技術であること、そしてその制度的位置づけの整備が喫緊の課題であることを論じた。特に、拙稿「PETsと個人情報保護法」では、差分プライバシーにおける精度と保護水準のトレードオフ、秘密計算の処理オーバーヘッド、連合学習におけるパラメータを通じた間接的な情報漏えいリスクなど、PETsの技術的限界には留保を付している。

本稿は、それらとは異なる観点からもう一つの留保を加える。PETsの信頼性を支える暗号基盤そのものが、永続的な前提ではないという問題である。

PETsを構成する技術のすべてが暗号の計算困難性に依存しているわけではない。たとえば、Shamir秘密分散に基づくプロトコルは情報理論的安全性を持ち、暗号アルゴリズムの強度に依存しない。しかし、秘密計算(MPC)のプロトコルの中には、Oblivious Transfer(OT)の実装、鍵交換、認証、通信路保護等において現行の公開鍵暗号(RSA、楕円曲線暗号等)を前提とするものがある3。連合学習においても、セキュアアグリゲーション、鍵共有、認証、通信路保護等の実装において、現行の公開鍵暗号に依拠する場合がある。差分プライバシー(DP)の機構自体は暗号に依存しないが、DPを組み込んだ実際のシステムでは、通信、認証、鍵管理、ログ管理等の部分で公開鍵暗号に依拠する場合がある。また、情報理論的安全性を持つプロトコルであっても、通信路の保護にTLS等の公開鍵暗号を用いるのが一般的であり、間接的な依存は広く存在する。

こうした暗号基盤に依存するPETsに限れば、「生データを開示しない連携」という実務上の期待は、少なくともその基盤にある暗号プリミティブ、鍵管理、認証、通信路保護等が想定どおり機能することに依存している。十分大規模で誤り訂正された量子コンピュータが実現すれば、Shor のアルゴリズム(1994 年に Peter Shor が提案したアルゴリズム)によって素因数分解問題や離散対数問題が多項式時間で解けるようになり、現行の RSA・楕円曲線暗号は理論的に解読可能となる。したがって、暗号解読に十分な能力を持つ量子コンピュータの実用化が進めば、暗号基盤に依存する PETs の前提が揺らぐ可能性がある。

2. 耐量子暗号の標準化と各国の対応

2-1. NIST標準の確定と移行目標

米国国立標準技術研究所(NIST)は2024年8月、耐量子暗号(Post-Quantum Cryptography: PQC)の最初の3標準を最終版として正式に公表した4。FIPS 203(ML-KEM:鍵カプセル化メカニズム)、FIPS 204(ML-DSA:デジタル署名)、FIPS 205(SLH-DSA:ハッシュベースデジタル署名)の三つである。2025年3月には、ML-KEMとは異なる数学的基盤(符号理論ベース)に基づくバックアップアルゴリズムとしてHQC(Hamming Quasi-Cyclic)が選定され5、2027年の標準化が予定されている。

NISTはこれらの標準化と並行して、NIST IR 8547の初期公開ドラフトにおいて、量子コンピュータに対して脆弱なアルゴリズムの非推奨化(deprecation)と標準からの除去(disallowment)に向けた移行タイムライン案を示している。同ドラフトでは、2035 年以降の量子脆弱な公開鍵暗号の扱いを含め、耐量子暗号への移行を進める方向性が示されている6

量子コンピュータが現行の公開鍵暗号を実際に解読できるようになる時期は、専門家の間でも大きく見解が分かれている。Global Risk Instituteの2025年報告書は、暗号解読に十分な能力を持つ量子コンピュータ、すなわち Cryptographically Relevant Quantum Computer(CRQC)が 10 年以内に出現する可能性を 28〜49%、15 年以内に出現する可能性を 51〜70%とする専門家調査の結果を示している7。米国国家安全保障局(NSA)も、その時期の予測は困難としつつ、国家安全保障システムの保護のために今すぐ行動を起こす必要があるとしている。いずれにせよ、量子コンピュータの実現時期には不確実性がある一方で、標準化機関や各国政府による移行検討はすでに具体化している。

欧州でもドイツ連邦情報セキュリティ庁(BSI)やフランス国家情報システムセキュリティ庁(ANSSI)が独自のPQC移行ガイダンスを公表しており、移行期には、現行暗号と耐量子暗号を併用するハイブリッド方式が実務上の選択肢として示されている。特に英国国家サイバーセキュリティセンター(NCSC)は、2028 年までに移行計画の策定、2031 年までに優先度の高いシステムの移行、2035 年までに全体的な移行完了を目指す段階的タイムラインを示している8。民間でも、Google Chromeが2023年8月のChrome 116 からハイブリッド鍵交換(X25519+Kyber768)の試験的導入を開始し、その後、NIST 標準化を受けて Chrome 131 で X25519MLKEM768(ML-KEM-768 との組み合わせ)に切り替えたほか、Apple社がiMessageに耐量子暗号を組み込むなど、主要プラットフォームでの実装は始まっている9

2-2. 日本の対応状況

日本においては、CRYPTREC(暗号技術検討会及び関連委員会)が耐量子暗号への対応を進めている。2025年3月に「CRYPTREC暗号技術ガイドライン(耐量子計算機暗号)2024年度版」が取りまとめられ、同年 4 月に公開された。同ガイドラインでは、NISTが標準化したFIPS 203・204・205が取り上げられており、これらを対象とした安全性評価および実装性能評価も進められている10

政府レベルでは、2025年6月に「政府機関等における耐量子計算機暗号(PQC)利用に関する関係府省庁連絡会議」の第1回会議が開催され、同年11月に中間とりまとめが公表された11。同文書は、移行目標について「量子計算機により公開鍵暗号の安全性が低下・危殆化する時期を現時点で予測することは困難である」としつつも、米国・EU・英国・カナダ等が2035年までを目標としていることを踏まえ、「我が国も2035年を目標として耐量子計算機暗号(PQC)への移行」を進める方針を示し、2026年度中に具体的な移行工程表(ロードマップ)を策定するとしている。特に機微な情報や保護期間が長期にわたる情報については、HNDL(Harvest Now, Decrypt Later)攻撃12のリスクを踏まえ、2035年を目標としつつも、より早期の移行を検討することの重要性にも言及されている。

金融分野では、金融庁が2024年7月から「預金取扱金融機関の耐量子計算機暗号への対応に関する検討会」を開催し、同年11月に報告書を公表している13

日本でも、まず政府機関等を対象として、2035 年を目標とする PQC 移行方針が示され、米国・英国・欧州主要国等と同じ時間軸で検討が進められつつある。一方で、CRYPTREC 暗号リストへの反映や具体的な移行工程表(ロードマップ)の策定は今後の課題であり、民間事業者が実装や移行判断の拠り所とできる詳細な制度的基準は、なお整備途上にある。この点では、拙稿「PETsと個人情報保護法」で指摘した、PETsの制度的位置づけがなお整備途上にあるという課題とも重なる。

3. PETsの設計・運用に求められる対応

耐量子暗号への移行は、暗号を使用するあらゆるシステムに関わる課題であるが、PETsにはその技術特性に起因する固有の論点がある。

3-1. PETsの技術群と耐量子暗号の関係——一律ではない影響

第 1 章で述べたとおり、PETs の量子コンピュータによる影響は、暗号基盤への依存の有無や、どの暗号プリミティブに依存しているかによって異なる。そこで本節では、主要な PETs 技術群ごとに、耐量子暗号への移行がどのような影響を及ぼし得るかを整理する。

ここで注目すべきは、NISTが標準化したML-KEM・ML-DSAが、格子(lattice)問題系の数学的困難性を安全性の基盤としている点である14。PETsの一つである完全準同型暗号(FHE)も、代表的な実装の多くが Ring-LWE などの格子問題系の数学的困難性を基盤としている15。すなわちFHEは、NIST が標準化した耐量子暗号と完全に同一の方式ではないものの、格子問題系という点で比較的親和的な技術群と位置づけられる。耐量子暗号への移行がPETsにとって一律に負担となるわけではなく、技術の選択によっては移行と整合的な設計が可能である。ただし、FHE の耐量子性や実装上の安全性は、スキーム、パラメータ、実装方式、サイドチャネル対策等に応じて個別に評価する必要がある。

一方で、第1章で述べたとおり、Oblivious Transfer(OT)ベースの秘密計算プロトコルでは、初期 OT、鍵交換、認証、通信路保護等において現行の公開鍵暗号に依存するものがある。そのため、耐量子暗号への移行に伴い、暗号プリミティブの置き換えに加え、プロトコル全体の安全性を改めて確認する必要が生じうる。単純な差し替えで安全性が維持されるとは限らず、脅威モデル、実装方式、通信路、認証方式を含めて再検証が求められることもある。

つまり、PETsの耐量子暗号への対応は、「どの技術を・どのような構成で使っているか」によって、必要な対応の範囲と難度が大きく異なる。この技術選択の判断自体が、今後のPETsの設計における重要な考慮事項になる。したがって、PETs を制度上ひとまとまりの安全措置として扱う場合であっても、実装方式ごとの暗号依存性、移行容易性、長期機密性への影響を区別して評価する必要がある。

PETs技術群

安全性の基盤

耐量子暗号への影響

備考

Shamir秘密分散ベースの秘密計算(BGWプロトコル等)

情報理論的安全性。プロトコル自体は暗号の計算困難性に依存しない

プロトコル自体への影響は限定的

ただし、通信路保護、認証、鍵管理に TLS 等を用いる場合、その部分は移行が必要となり得る

OTベースの秘密計算(Yao garbled circuit、GMW等)

OT、鍵交換、認証、通信路保護等で計算量的安全性に依存する場合がある

暗号プリミティブの置き換えが必要となる可能性

単純な差し替えではなく、脅威モデルや安全性証明を含めた再検証が必要となり得る

完全準同型暗号(FHE)(BFV/BGV/CKKS等)

計算量的安全性。多くの実装は Ring-LWE 等の格子問題系に依存

格子問題系という点で耐量子暗号と比較的親和的

ただし、スキーム、パラメータ、実装方式、サイドチャネル対策等の個別評価が必要

連合学習

学習方式自体は暗号そのものではないが、セキュアアグリゲーション、鍵共有、認証、通信路保護等で公開鍵暗号を用いる場合がある

実装に応じて、鍵共有・認証・通信路保護部分の置き換えが必要となり得る

差分プライバシーや秘密計算と併用される場合もあり、構成全体での評価が必要

差分プライバシー(DP)

DP機構自体は暗号非依存

DP機構自体への影響は限定的

ただし、DP を組み込んだシステムの通信、認証、鍵管理、ログ管理等で公開鍵暗号を用いる場合は、その部分の移行が必要となり得る

図表 1  PETs技術群の暗号基盤依存と耐量子暗号の影響度

3-2. 鍵サイズの増大がもたらす実務上の課題

暗号プリミティブの置き換えが必要な場合、もう一つの実務的課題が生じる。耐量子暗号のアルゴリズムは、現行の公開鍵暗号と比較して鍵や署名のサイズが大きくなる傾向がある。ML-KEMの公開鍵に相当する encapsulation keyは800〜1,568バイトであり、従来のX25519(32バイト)と比較すると25〜49倍に達する。デジタル署名のML-DSAでは、最も小さいパラメータセットであるML-DSA-44であっても、現行のEd25519と比較して鍵・署名・証明書サイズが大きくなることが指摘されている16

こうしたサイズの増大はプロトコルメッセージの通信量に直接影響する。秘密計算では参加者間で大量のプロトコルメッセージが交換されるため、この影響は無視できない。拙稿「PETsと個人情報保護法」(2-2)でも指摘したとおり、秘密計算の処理オーバーヘッドはすでに実務上の課題であり、暗号基盤の移行がこれをさらに深刻化させるおそれがある。

ただし、鍵交換(KEM)については、すでに商用段階での移行が進みつつある。Google Chrome や OpenSSL など、主要ブラウザ・暗号ライブラリの一部では、ML-KEM を用いたハイブリッド実装の導入が進められている。Amazon の研究者らによる実証実験では、高帯域・安定ネットワーク環境における耐量子 TLS 1.3 の Time-to-Last-Byte、すなわちデータ転送完了までの時間の増加は 5%未満にとどまったと報告されている17。もっとも、この結果はネットワーク環境や実装条件に依存し、低速ネットワークではハンドシェイク時間の増加がより大きくなることも報告されているため、一般化には留意が必要である。課題がより大きいのはデジタル署名の側であり、PETsのプロトコル設計においてもこの非対称性を踏まえた検討が求められる。

3-3. 暗号アジリティの確保

暗号アジリティ(Cryptographic Agility)とは、使用する暗号アルゴリズムや暗号プリミティブをシステム全体の再設計なしに差し替えられる設計上の能力を指す。NISTの移行ガイダンスにおいても、暗号アジリティの確保は、耐量子暗号への移行を進めるうえで重要な考慮事項とされている。

PETsの実装やデータ連携基盤において、暗号アルゴリズムがハードコードされている場合、移行時に大規模な改修が避けられない。3-1で述べたとおり、FHEのように格子問題を基盤とする技術は移行の影響が比較的小さい場合があるが、それ以外の技術については暗号プリミティブの差し替えや安全性の再検証が必要になる。暗号アジリティは、単に暗号アルゴリズム名を設定ファイル化することにとどまらず、鍵管理、証明書、認証方式、プロトコル交渉、監査ログ、サプライヤー依存、相互運用性、データ保存期間等を含めて設計する必要がある。今後新たにデータ連携基盤を設計する場合には、将来の暗号移行を見据えて、暗号プリミティブの差し替えが可能なアーキテクチャを採用しておくことが現実的な備えの一つである。

3-4. Harvest Now, Decrypt Laterへの対応

HNDL攻撃は、長期にわたって機密性が求められるデータにとって特に深刻な脅威である。NSAもこの脅威を認識し、早期移行を求める根拠の一つとしている18

PETsで保護された状態でデータが連携される場合でも、通信路上を流れる暗号化されたプロトコルメッセージ、鍵交換に関する情報、ログ、監査証跡、中間出力等が傍受・蓄積される可能性はある。ただし、将来それらが復号または解析された場合に復元される情報の範囲は、プロトコルの設計に依存する。秘密計算の多くのプロトコルでは、通信路上に流れるのは暗号化されたシェアやプロトコルメッセージであり、元データそのものではない場合が多い。したがって、復号または解析されたとしても元データが直接復元されるとは限らない。

とはいえ、復元される情報の範囲がプロトコルに依存するということは、プロトコルの選択と設計にあたってこの脅威シナリオを考慮に入れる必要があることを意味する。長期にわたって機密性を維持すべきデータの連携においては、この点の検討がとりわけ重要になる。

  • 18. 前掲のNSA, "CNSA Suite 2.0 and Quantum Computing FAQ" (December 2024. Harvest Now, Decrypt Later)の脅威モデルについても言及されている。

おわりに

PETsはデータ連携の有効な技術的手段である。この評価は変わらない。しかし、その技術群の中には暗号の計算困難性に依存するものがあり、その暗号基盤は耐量子暗号への移行という形で更新を求められている。

一方で、完全準同型暗号のように、格子問題系という点で耐量子暗号と比較的親和的な技術も存在する。PETsへの影響は一律ではなく、技術の選択と設計によって対応の範囲は大きく異なる。

NISTは標準を確定し、NIST IR 8547の初期公開ドラフトにおいて移行タイムライン案を示した。欧州各国や英国もガイダンスを公表し、民間での実装も始まっている。日本でもCRYPTRECによる評価が進み、政府機関等については関係府省庁連絡会議の中間とりまとめにおいて、2035 年を目標とする移行方針が示された。一方で、具体的な工程表の策定は 2026 年度中の予定であり、民間事業者が参照できる詳細な制度的基準は依然として整備途上にある。

PETsの制度的位置づけの整備(拙稿「PETsと個人情報保護法」参照)を進めるにあたっては、暗号基盤の移行という時間軸を視野に入れておく必要がある。制度が整った時点で、暗号依存部分の技術的前提が更新を迫られていたという事態を避けるために、PETsの制度設計と暗号基盤の移行可能性は、並行して意識されるべき課題である。

技術的手段の有効性を適切に評価するには、その前提条件を継続的に検証することが欠かせない。PETs についても、技術名だけで安全性を評価するのではなく、どの技術を、どの構成で、どの期間、どのようなデータに用いるのかを踏まえて評価する必要がある。

本内容は、筆者自身の調査分析に基づく個人的見解で、JIPDECの公式見解を述べたものではありません。

著者情報

著者
JIPDEC 電子情報利活用研究部 次長 松下 尚史

青山学院大学法学部卒業後、不動産業界を経て、2018年より現職。経済産業省、内閣府、個人情報保護委員会の受託事業に従事するほか、G空間関係のウェビナーなどにもパネリストとして登壇。その他、アーバンデータチャレンジ実行委員。
実施業務:
・自治体DXや自治体のオープンデータ利活用の推進
・プライバシー保護・個人情報保護に関する調査
・ID管理に関する海外動向調査
・準天頂衛星システムの普及啓発活動 など